作文
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第78回 字のこと
ただ今私は上機嫌だ。
大好きな写真をプレゼントしていただいたので
部屋の一等地に置いて
川原で拾った石やガラスの文鎮(いや、もっと適切な言い方があったと思うが)を
一緒に配置などして、ご満悦である。
陽子ご満悦。
この前、字をほめられたので
字について考えてみた。
私は字というものが比較的好きな子供だった。
小学2年生になる時
「2年生になったらもっとたくさん漢字が習える」と
楽しみにしていたことを覚えているから。
ブルボンのお菓子のパッケージに載っている
「ビスケットとチョコクリームのハーモニーが・・」
みたいな文まで読むのが好きだった。
私が習った小学校の先生のことは
とてもよく覚えているが、
字と顔が必ずセットになっている。
一年生の時の男の先生と学級通信の字。
二年生の時、年配の先生の、とめ、はね、活力みなぎる字。
三・四年生の担任の先生の字が好きだった。
ひらがなの角張るところを、ちょっとやわらかく丸くしている字だったから。
優しい字だった。
まねしようとしたことを覚えている。
五年生になって、習字が苦手な先生がいることを知った。
情熱が、字を追い越していくような先生だった。
中学生になって、さらにそんな先生が多いことに
びっくりした。
大人なのに子供みたいな字を書く理科の先生。
その先生は、ちょっと印象的な先生だった。
先生は見た目はそんなタイプに決して見えないのに
生徒たちに
「オレは昔水泳部でめっちゃモテててんぞ!」
というのが口癖だった。
生徒たちは、本気で「うそや〜〜!!」と
やじっていた。
でも歌の上手いのは本当で
修学旅行の時など
松山千春の「恋」をいい声で歌いあげていた。
人気者の先生、では決してなく、
生徒に常にツッコミをいれられる先生、という感じだった。
授業中に、「ええか?」とあまりにも何回も言うので
マネされたり。
確かに説明の上手さより、気持ちが追い越してしまってるような
授業だった。
で、その頃、内申書に嘘を書く先生がいる、
みたいな話しがよくささやかれ出して
先生でもずるすることあるんだ〜という空気の中、
「どの先生はしそうかな?」と
なんとなく想像していた時
その「ええか?」の先生はそんな事しなさそうだ、と
思ってる自分に気付いたのだった。
全然好きなわけでもなく
あまり関わりもなかったが私は信用してるらしい。
その時先生の子供じみた字が頭に浮かんだのだった。
先生の字は不恰好であったが
決して読みにくくはなかったのだ。
不思議と。
それから私は、そういう字が好きになった。
伝えようとする意欲満々の字。
癖があっても統一されている。
ゆえに、きれいでなくても不思議と読みやすい。
上手な字でも、自分の字のきれいさに酔ってるような字は
不思議と読みづらい。
絵を描く人の字も好きだ。
その人にしか書けない字を持っている。
伝えるという事を堅苦しく考えず
楽しんでいる字。
話すスピードのまま書いてくれたような字も、
字としてはかなり省略度が高いのに不思議と読みやすい。
楽しい気分で書いてくれたことが
びゅんびゅん伝わってきて嬉しい。
大人になって、こちらが頑張ってもまったく読めないような
字を書く人がいることも知った。
そういう字の文章は読まないことにしている。
伝えようという前提がない言葉は疲れてしまう。
人の字を見るのがとても好きだ。
その人が自分以外のものを、どんなふうに信じてるかを
垣間見れるような気がする。
手紙で、その人の字体を見るだけで
何かが伝わってくる。
ひとりで生まれてきて死んでゆくまでの間、
何度でも問いかけるように
扉をノックするように
言葉を抱きしめては
手ばなしてゆくのだ、
私たちは。
第79回 喫茶店
この前、たまたま飲みに行った店で
隣に座っていた人が
「必ず合うはずだから行くように」
と、ある喫茶店を教えてくれた。
その人は、初めて会う人だったが
丁寧に念を押すような感じで
何度も私に言った。
珈琲が美味しい。
ラピュタに出てくるオババみたいな人がいる、
とも言っていた。
ラピュタはちゃんと観てないのだが
TVでちらっと観たそのオババは
私の究極の憧れなのである。
今思えば、物語の始まりっぽいできごとだった。
知らない道でもなかったので
気になって行ってみたのだ。
知らずに歩いて通ったとして
そこにお店があることに
気付けなかっただろうなあ。
私はこの世の宣伝三昧に、慣らされているんだなあ。
入ってみたら
「あ〜〜〜〜」
というか、
「そうなんだなあ」
というか、いっそのこと
「えーーん(泣)」
と突っ伏したいような感じであった。
そこにいることで私はとても落ち着いたし、
腑に落ちたのだった。
風に舞っていた羽根が
ふわりと地面に着陸した時のように。
もしくは、まるで生まれた場所に帰ってきたような?
祈りは場所というものにも集まるのか、そうなのか。
そこは必要なものと、必要なムダが
必要なだけあった。
日めくりカレンダーがあった、
永遠の座標軸の今日を示す羅針盤。
コートをかけるフックがあった、
冬でも大丈夫。
公衆電話もあった、ちゃんと下界とつながっているのだな。
そこで珈琲を飲みながら
心が満たされた、
トライフルというお菓子のスポンジに
洋酒やカスタードクリームが染み込むような感じで。
心が満たされると、今私が欲しいものが見えてくるのだった。
私が必要としているもの・・。
大方いつでもそれは、
お金で買えるものであることは少ないようだ。
そんな時、例えば
誘惑のオシャレな買い物大通りみたいな所(なんだそりゃ)を歩いていても、
それらはパレードの賑やかし以上のものにはならないのだった。
このようなことが、人の人生にはあるものなんだなあ。
祈りがかたちになっている。
時間によって磨かれている。
私達の世界で息づいている。
珈琲は、美味しかった。
私はこの世の「あたりまえ」を
味わっていたのだった。